原敬墓所
寛文13年(1673)の創建。明治17年の大火で焼失してしまいますが、平民宰相・原敬の寄進建立で現在に至ります。 大慈寺の境内には、大正11年東京駅で一青年の凶刃に倒れた原敬が、その遺言により眠っています。原敬(はらたかし 通称はらけい)は、1856(安政3)年に盛岡市本宮の南部藩士族の家に次男として生まれ、幼名を健二郎といいました。原の出は士族ですが、次男ということもあって平民となっていました。藩校作人館(仁王小学校の前身)で学び上京、新聞記者などを経て1918(大正7)年に首相となり、歴代の士族出身の首相に代わる、日本初の平民宰相として国民に歓迎されました。日本における政党政治の第一歩を記した人物としても知られています。原の合理主義による開明性は皇太子(当時の)の欧州視察旅行の推進実現に代表されます。しかし原はその開明性のために極右勢力に狙われ、1921年11月、19歳の国鉄職員に東京駅で暗殺されました。原は趣味として俳句をたしなみ、その時々の心境を託したすぐれた作品が数多く残されています。このほか新聞社につとめたときには、原敬の署名で論説に筆をとる一方、多くの著書を残しました。満19歳から65歳に暗殺された当日までの記録「原敬日記」は学術上の貴重な文献となっています。また、大慈寺には原敬の別荘であったものを、没後にあさ婦人から元のまま寄贈された腰越荘があります。原敬が忙しい生活の折にくつろぎをとった懐かしい建物でもあり、室内には西園寺公望の筆による腰越荘の額が今もかけられています。
基本情報
- 住所
- 岩手県盛岡市大慈寺町5-6
- 公式サイト
- https://iwatetabi.jp/spot/detail/03201/691.html
問い合わせ先
- 問い合わせ先
- 大慈寺
- 電話番号
- 019-622-4709